過日、なんとも悪趣味なテレビ番組を目にした。小生自身はテレビを観ないのだが、夕食時に家族と食卓を囲む際に強制的に見せられることになるのである。

その番組では日本の寿司職人や蕎麦職人などが身分を隠し、アフリカの(国名は失念)寿司や蕎麦を供する飲食店へ「修行」をしに行くというものであった。
当該店での寿司のつくりかたはなんとも個性的で、日本人から見たら寿司であるとは首肯出来かねる代物で、まったくの別物と言っても過言ではないものであった。
それを面白おかしくナレーションで煽り立て、 現地の寿司職人をこき下ろし、笑いものにしているのである。
小生は日本人というものは斯くも醜いものであったかと愕然とした。

日本人自身、世界各国の料理はもちろんのことあらゆる文化を日本化し、土着化し、変形(どうかhengyouと発音してください)させて取り入れてきたのである。今小生が書き読者諸兄が読んでいるこの漢字かな混じりの文章が既にその例である。
そういったものには本場の国の者が見たら卒倒するような代物もあるに違いない。自国の食文化に誇りを持っていることで有名なイタリア人から見たら日本独自のナポリタンなるものはひどく珍奇に映ることであろう。インドにカレーを米にかける風習などないし、エビチリは四川料理をもとに陳建民が日本人向けにアレンジしたものである。

己は世界中の食文化を変形し日本化しているのに、日本食を現地人向けにアレンジするのは許さないのだという。
アメリカのグローバリズムとなにが違うというのだ。
アメリカのそれは政治経済での面が主だが、こっちは文化の面で「民」がやっているのだからなおさらたちが悪い。

国や地域が違えば食の好みが違うのも当然。だからこそ日本人は外国の食物を日本風にしてきたのではないか。それと同じことをアフリカ人が行うのも当然であろう。アフリカ人の口に合うように変容させるのを許さぬとはなんという原理主義者か。これでは形を変えたISISである。

イタリア人やインド人が日本独自に変わった母国料理を見てケチをつけるであろうか。内心では小馬鹿にはしているかも知れぬが、わざわざ地球の裏側にまで行ってテレビに映して笑いものにするような悪趣味なことはしないだろう。実際イタリア人のナポリタンに対する反応は極めて理解力のあるものである。

現地の事情や好みなど鑑みることなく、日本食はこうでなくてはならないと押しつける。そんなものは日本文化を広めたとは言わない。文化がコピーされたみたいに伝わることなどないのは文化人類学や民俗学に少しでも触れたことがある者なら周知の事実だろう。古代支那の笙という楽器がユーラシア大陸の西端に伝わってパイプオルガンとなったのだ。少しずつ変容し、グラデーションのようにして伝わり広まるのである。

日本文化はそんな偏狭で原理主義じみたものではないと信ずる。多様性を許容し、他者を認める寛容こそが日本文化だと思いたい。

日本文化がアレンジされて世界を席巻した例にブラジリアン柔術がある。
ブラジルは元々日系人が多いせいか柔道が盛んであったが、木村政彦とエリオ・グレイシーがブラジルで柔道の試合をし、死闘の結果木村が腕がらみ(アームロック。ブラジルでは「キムラロック」「キムラ」と呼ばれることも)で勝利した。
これを機にエリオは寝技を徹底研究し、柔道とは異なるグレイシー柔術を大成し、これがのちのブラジリアン柔術となる。投げを重視する柔道と違い、ブラジリアン柔術は寝技で決着がつく。技を決めて相手にギブアップさせて一本とるか点数による判定であるが、これが総合格闘技の礎となり、世界中の軍隊で採用され、ロシアではサンボという競技の元となった。まさに日本の柔道がブラジルでアレンジされて世界のスタンダートとなったのである。

寿司も蕎麦も現地にあった変容を遂げて良い。
文化はスタイルではなく魂である。