Kindle小説『ロリコン探偵仁とニック』
表紙
トトロ二次創作小説
となりの子取ろ(pixiv)
表紙

 本作は声優ではない一般俳優のキャスト起用やJPOPバンドの主題歌などでごまかしてはいるが、紛れもなくキモオタによるキモオタのための作品である。枝葉末節をここに書き連ねても仕方がないので省くが、視聴されたキモオタ諸兄においてはそれが身に染みてわかったはずだ。スタジオジブリとは無縁のところで育まれた、オタク文化の伝統的様式美がそこかしこに息づいている。
 いわば一般向けの隠れ蓑の下で、まんまと新海監督が「してやった」わけである。それが非オタ層も巻き込み、社会現象となるまでのヒットとなり、海外をも席巻したというのは実に痛快極まりない。
 それは宮崎駿監督が毛嫌いしているものでもある。宮崎監督はオタクやオタクが好むアニメを嫌悪している。今までアニメ界の絶対的権威として君臨してきた宮崎監督に反旗を翻し、本丸に迫るところまで行ったのが本作だ。次回作制作を表明している宮崎監督は燃え盛る本能寺で人間五十年を舞うか、討って出るかを迫られている。
 宮崎監督のデジタル嫌いと言えば異常なほどで、小生はギャングスタなので遠慮無く言うのだが老害としか言えないところがある。とにかくCGやデジタルペイントを蛇蝎の如く忌み嫌っているのだ。
「君の名は。」ではCGやデジタルを駆使し、それ自体に感動を覚えるような映像美をつくりだしてみせた。宮崎監督を思い浮かべながらドヤ顔をしている新海監督が目に浮かぶようである。決して人の手だけではつくりだせない映像である。
 また本作は明らかに「となりのトトロ」を意識したものでもあった。二人の姉妹と老婆、病気がちな母親。田舎。これでトトロを思い出さないのはトトロを見たことがない者であろうというくらいにあからさまであった。トトロではEDで母親の退院を示唆しハッピーエンドで終わるが、本作では母親は死去し、婿養子である父は家を出てしまう。トトロの否定、宮崎監督の否定を端緒にあらわしているようにしか思えないのである。こうなってくるとBGMのピチカートストリングスも久石譲っぽく聞こえてくる。
 従って本作は宮崎監督への挑戦と見て差し支えないのではないだろうか。
 我々は革命の始まりを見たのである。
 震災や原爆などいろいろなものを暗示している要素があったが、本作は一言で言ってしまえば「SNSとオフ会」の寓話である。壮大なるオフ会なのである。
 瀧と三葉は入れ替わりによって互いの存在を知覚し、互いのことを事細かく、おっぱいの揉み心地から陰茎の具合に至るまで知り尽くしているが、終盤に至るまで一度たりとも「会っていない」のである。文字によるコミュニケーションは頻繁に行っているが面と向かって直接会話をしたことはない。これはまるっきりSNSではないか。
 彗星の迫る糸守町での邂逅を「未だ夢の中」なのだとすると、ラストの階段でようやくオフ会を果たしたことになるが、ネット上でのやりとりのおかげで初めて会ってもスムーズに会話が出来るというのはままあることである。あれほどの経験をシェアしたのだから、その存在感たるや現実で関わっている人間以上のものがあるだろう(カップルとしては長続きしなさそうだが)。
 この辺りはキャッチコピーの「まだ会ったことのない君を、探している」にも現われている。やはり「ネット上の知り合いとのオフ会」を暗示したストーリーなのだ。
 と見てみると非常に現代的なテーマ性をはらんでおり、やはり宮崎監督には描けないものだ。

 これはもう、何度も見直したい作品だ。見るほどに新たな発見があるだろう。Googleプレイストアでレンタル購入したのだが本購入してしまった。Nexus7で見ていたのだがHD画質がすごかった。

 このような作品を生み出した人類に乾杯である(禁酒中であるが)。





 ところでJK口噛み酒はいつ発売になりますかね?

去る2016年4月~6月にかけてノイタミナで放送されていたアニメ「甲鉄城のカバネリ」。
人物の顔の影が二種類使われているとか、キャラの「メイクアップ」専門のスタッフがいたとか特筆すべき点はいくらもあるが、その辺は他所でも散々口の端に上っているのでそこは敢えて触れない。

小生はこの作品を現代の緊迫した世界情勢と重ね合わせて見ていた。

カバネ=テロリスト
人間=キリスト教徒の欧米人

というような図式に見えたのである。ではそのどちらでもないカバネリはというと、これは一般イスラム教徒なのだ。
キリスト教徒ではない。かといってテロとも無関係の善良なイスラム教徒。
作品のOPでの「貴様は人か、カバネリか!?」という 問いに対し生駒は「どちらでもない、俺はカバネリだ!」と言い放つ。
「貴様はキリスト教徒か、テロリストか!?」という問いに対して「どちらでもない、俺はイスラム教徒だ!」と言っているように見えて小生は一抹の希望を見た気がした。これだけテロが頻発している欧米において、「イスラム教徒だ」と胸を張って言っていいのだと。

作品冒頭では「武士」たちによる横暴とも言えるカバネ対策が描かれる。少しでもカバネに噛まれた可能性のある者を排除するのはまあ当然かもしれないが、それが高じてまったく無関係な人間まで殺してしまい、しかもそれをまったく恥じることもない。つい生駒も声を上げて抗議する。

これはテロリストを恐れるあまり一般イスラム教徒を殺してしまったということである。

そこにきて生駒や無名といった第三者的立場の「カバネリ」が甲鉄城に現われるわけだが、彼らは人間とともにカバネと闘うことで敵ではなく味方だということを示し、徐々に信頼を置かれるようになる。
現実においても一般イスラム教徒はテロリストをイスラムの敵だとし、イスラムとは無関係だと主張している。

カバネリの食糧問題(人間の血を吸わなければならない問題)も各人が血を提供するというかたち解決にいたる。

わかり合えたのだ。
敵ではないことがわかり、肉体的特徴以外は自分ら人間とかわらないことがわかり、協力し合えることがわかった。
こうして良好な関係を築き上げたかに見えた人間とカバネリであるが、事態は急変する。

美馬様の登場である。
美馬は人工的にカバネリをつくりだし、意のままに操る。無名もアニサマと呼び慕い、美馬のすることは全て正しい状態である。あ、こりゃホストに貢ぐタイプだなと思ってこんな絵を描いてしまった。

無名ホスト2

無名は美馬のまさにテロリズムと言うべき恐ろしい所業に手を貸してしまう。

昨今欧米ではテロのパンデミック状態の様相を呈しているが、直近の事件の特徴はISISなどの集団とはつながりのないイスラム教徒が、彼らの影響を受けて独自に犯行に及んでいるという点である。
これは非常にまずい事態で、一般イスラム教徒もテロリストになるではないかということになる。
美馬に手を貸した無名も「やっぱりカバネだ」ということになってしまう。

この辺りはアニメでは割と投げっぱなし感があって、最終回では当たり前のように無名は甲鉄城の面々に受け入れられて終わる。

とは言え最終回での美馬の台詞
「人間は臆病な生き物だ。怖いから拒絶し、理解できないから攻撃する。人の臆病が戦いを生むのだ」はまさにこの世界情勢を言い表しているし(それだけではなく世代間闘争にも言える)、
菖蒲様の
「銃を向ける相手を間違ってはなりません。打ち抜くべきは互いを疑う心です」が本作品の核であり、世界へのメッセージである。これがなければ菖蒲様は何しに出てきたレベルの無能キャラで終わるところだった。

「異種間の共存」が小生の大きな文学的テーマであるので、本作はそう言った意味でも大いに刺激になった。













いやね、とにかくね、無名がかわいいんだよ。
蹴ってくれるしね。
だけど11話冒頭観てすっかり鰍派になってしまった。

ボンちゃんと畠中のラジオカバネリツアーズも最高に面白かった。 

「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」の映画版がドコモアニメストアに来ていたので途中まで観たところで考えてしまったのは、日本古来の死生観と仏教的死生観との齟齬についてである。
仏教伝来前の日本人の死生観は、死者と生者の世界は分かたれておらず、死者は生者とともにあった。
古来の日本人の大多数を占めていた農民は死者の魂は山に集うと考えた。それが決められた時期になると山を下りてきて子孫のもてなしを受け、「田の神」となり、また時期が来ると山へ帰っていき「山の神」となるとした(この場合の「神」はもちろん一神教のGODではなく、精霊と言った方が近い)。これを仏教が取り込んで制度化したのがお盆である。お盆思想と仏教思想が矛盾しているのはこのためである。お盆は本来仏教行事ではないのだ。
お盆になる前、山の神が降りてくるのは田植えの時期である春で、山に帰るのは稲刈りを終えた秋であった。これと密接に結びついているのが実は妖怪の河童なのだが、これはこの際関係ないので省く。

ともかく日本古来の死生観では死者は生者と同じ世界を生き、死者の魂は生者を見守っているのだ。
死ぬと三途の川を渡り閻魔王庁で裁きを受け、六道を輪廻する仏教的死生観とは大きく隔たりがある。

じんたんの元をめんまの霊が訪れ、ぽっぽがそれを信じた。ぽっぽは「めんまはこの世になにか心残りがあって成仏できないのではないか」というようなことを、神仏を拝むように合掌を交えて言った。これにはめんま本人も「わかんないよぉ」と言って戸惑いを見せたわけだが、このシーンに違和感をおぼえたのは小生だけではないと思う。あのように親しかった仲間を神仏のごとくに見なし、自分らとは違う世界に住む異人として扱うぽっぽに引っかかりを感じた人は多いのではないだろうか。
これが日本的死生観と仏教的死生観との齟齬である。現代日本においてはどちらかと言えば後者の方が影響力が強いため、ぽっぽの言動も無理もない。死んでしまっためんまは生者である彼らとは別の存在であり、有り体に言えば「除け者」だ。かつてのめんまが学校ではぼっちであり、超平和バスターズに誘われることでそれが回避されたわけだが、死んだことで再びぼっち化してしまったわけだ。
このシーンに違和感を感じたということは、日本人は完全に仏教的死生観に染まりきっているわけではなく、古来の死生観が原風景として心に根付いているのである。だからこそそこに齟齬が生じるわけだ。

幽霊、とりわけ地縛霊などは仏教思想で考えるから恐ろしいのであって、日本的思想で考えれば居て当たり前、なにも怖いことなどないのである。そういえばオカルト話などでは家族や恋人、友人などの霊に震え上がり怪談とすることもしばしであり、小生も度々疑問に思ってきた。そういった人の霊に会えるのならこんなに嬉しいことはないだろうに・・・。

日本的死生観が素晴らしくて仏教的死生観がダメだと言うのではない。仏教的死生観はインドの厳しい環境だからこそ馴染んだのかもしれない。人が死にやすい環境だから死者との決別に感傷的にならず、別の世界に行ったのだというあきらめをもたらすのが慈悲だったかもしれない。
「あの花」は最終的にめんまの願いを叶えることで満足し、成仏(=彼らの前から消え去った)した(エンジェルビーツにも通じる)。これは仏教的死生観だからこそ成し得た大団円であり、死者が常に共にある日本的死生観では出来なかった。彼らが寺を遊び場にしていたのはそのことの暗喩であろうか(子供の遊び場としては神社の方が自然である)。
こうして見ると日本的思想は生者のための、仏教的思想は死者のための思想、と言えなくもない。
ただし日本の祖霊信仰では、山に集った死者の魂はある一定期間(50年、33年、30年と地方により異なる)を過ぎると個性を失い「祖霊」という単一の存在に合一されるため、これが「成仏」と言えなくもない。昔の平均寿命を考えたらそれくらいの時間が過ぎればその死者を知っている人もいなくなるであろうし、合理的なシステムではある。

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